考える子供、考えられない大人

今の子供、若者が定年前後の世代に批判されているのをよく目にする。

子供なら読解力の低下だの、少年犯罪だの、批判を受けているのをみる。一方で若者は、仕事で使えないだの、消費しないだの、貯金しないだの、国政に無関心だの批判を見る。

また若者は若者で、バブルを経験した人達は~などの批判を浴びせ応酬している。

この構図、とてもくだらないように感じている自分がいた。しかし、よくよく話を聞けば若者の話は多少なりとも自分の現実に則した反論をよく見る。確かに金銭などは死活問題であるため、自分の現実に則しやすいのかもしれない。一方、大人の批判は過去の自分と比較した批判や新聞などが公表したデータに基づくものが多い。この違いはどこからくるのか。

一番の理由は、若者がデータを持たないことと大人は経験に基づくデータを持つという違いだと考えている。すなわち、大人は若い頃の自分の経験を記憶に留めている。加えて、大人が若い頃の主なデータ源は新聞などであったという事実がある。そこから、大人は自分の経験と新聞などから得られるデータをみて若者を批判する。一方若者は、自身らが生まれた後にはインターネットが台頭した。その結果、データはインターネットからも得られる。さらには、テレビ、新聞が流す情報は必ずしも真実ではないという事実も経験しているであろう。そうなったとき、若者はデータを選ぶ必要が出てくる。言うなればデータの正確性を見極めなければならない。そこで若者は考える。一方で大人は、そのような事を若い頃には経験していない。その結果、その部分で考えるということはあまりしていないように見られる。

このことから僕自身が何を言いたいのか。それは若者を批判するわけでも大人を批判するわけでもない。ただ、情報は血液のようなものであるということだ。昔と同じ血液を流し続けるわけにはいかない。劣化するからだ。すなわち、情報は更新しなければならない。自分の持つ常識が時に壊されうるかもしれない。しかし、それを恐れてはならない。世界は緩やかに変化する。時代に取り残されないために、自身の持つ情報、それは新聞などのメディアから見た情報だけではない。自分の経験より得られる情報さえも見直さねばならない。常に更新をし続けなければ取り残されてしまうであろう。

僕は、同年代の人間よりものを考えられる自負がある。なら、なおさら僕は情報に留意し、自身の持つ情報を更新することに柔軟であるべきだと思う。でなくては、凝り固まった思考を引きずって余生を過ごすこととなるであろう。すぐに考えられるということは、同時に考えるための材料、すなわち情報を保持していることと同値である。ならばその情報が古く現代に則しているかどうかも常に精査しなければならない。持つものの責任であろう。