自動車は再び回帰する

工業化により大量生産が可能になったことで車は大衆向けとなった。そして今、車は再び嗜好品の地位へと舞い戻ろうとしている。

なにもこれは車に限った話ではない。当面の間は、通信機器および消耗品以外は嗜好品となりえる。これはどういうことか。

車の話からしよう。車を24時間乗り回す人などこの世にいるのだろうか?恐らくいない。では、車に持ち主が乗っていない間車はただの置物になってしまう。それは損失である。しかしながら、我々人類はその損失を埋め合わせることを注視しなかった。しかし、あるとき誰かが気づき車の共有サービスを考え始めた。

これが車だけでなく起こるのだ。消耗品は共有ができない。また、人類は通信されてなければいけないが、現状は端末を持たずに通信することができないのでこちらも当面は共有できないであろう。

車の所有は趣味となるだろう。車だけではない。家を買うのも趣味だ。家具を持つのも趣味だ。ミニマリストではない。自分の物がミニマムなのだ。物には溢れている。そのような世界がくる頃にはなにが起こるのであろうか。

考える子供、考えられない大人

今の子供、若者が定年前後の世代に批判されているのをよく目にする。

子供なら読解力の低下だの、少年犯罪だの、批判を受けているのをみる。一方で若者は、仕事で使えないだの、消費しないだの、貯金しないだの、国政に無関心だの批判を見る。

また若者は若者で、バブルを経験した人達は~などの批判を浴びせ応酬している。

この構図、とてもくだらないように感じている自分がいた。しかし、よくよく話を聞けば若者の話は多少なりとも自分の現実に則した反論をよく見る。確かに金銭などは死活問題であるため、自分の現実に則しやすいのかもしれない。一方、大人の批判は過去の自分と比較した批判や新聞などが公表したデータに基づくものが多い。この違いはどこからくるのか。

一番の理由は、若者がデータを持たないことと大人は経験に基づくデータを持つという違いだと考えている。すなわち、大人は若い頃の自分の経験を記憶に留めている。加えて、大人が若い頃の主なデータ源は新聞などであったという事実がある。そこから、大人は自分の経験と新聞などから得られるデータをみて若者を批判する。一方若者は、自身らが生まれた後にはインターネットが台頭した。その結果、データはインターネットからも得られる。さらには、テレビ、新聞が流す情報は必ずしも真実ではないという事実も経験しているであろう。そうなったとき、若者はデータを選ぶ必要が出てくる。言うなればデータの正確性を見極めなければならない。そこで若者は考える。一方で大人は、そのような事を若い頃には経験していない。その結果、その部分で考えるということはあまりしていないように見られる。

このことから僕自身が何を言いたいのか。それは若者を批判するわけでも大人を批判するわけでもない。ただ、情報は血液のようなものであるということだ。昔と同じ血液を流し続けるわけにはいかない。劣化するからだ。すなわち、情報は更新しなければならない。自分の持つ常識が時に壊されうるかもしれない。しかし、それを恐れてはならない。世界は緩やかに変化する。時代に取り残されないために、自身の持つ情報、それは新聞などのメディアから見た情報だけではない。自分の経験より得られる情報さえも見直さねばならない。常に更新をし続けなければ取り残されてしまうであろう。

僕は、同年代の人間よりものを考えられる自負がある。なら、なおさら僕は情報に留意し、自身の持つ情報を更新することに柔軟であるべきだと思う。でなくては、凝り固まった思考を引きずって余生を過ごすこととなるであろう。すぐに考えられるということは、同時に考えるための材料、すなわち情報を保持していることと同値である。ならばその情報が古く現代に則しているかどうかも常に精査しなければならない。持つものの責任であろう。

鎮魂という言葉の真意

友人が神戸の夜景の写真をSNSにあげていたのを見て、神戸ルミナリエを思い出した。神戸ルミナリエは鎮魂のために行われているという事実を知らない人もいるのではないか?神戸ルミナリエは鎮魂のイベントである。

では、鎮魂とは何か。鎮魂の意味を調べると以下のように出てくる。

ちん こん[0] 【鎮魂】

( 名 ) スル
死者の魂をなぐさめ,しずめること。
たましずめ(鎮魂)① 」に同じ。
[引用元 : 鎮魂]
死者の魂を慰めるとある。しかし、僕はそうは思わない。魂というものの考え方にも依るとは思われるが、魂というものは実態がなく、人々の認識の中に存在するという認識が正しいと個人的には考えている。すなわち、阪神淡路大震災にしろ、鎮めようとしているのは、死者の魂を認識している生者の魂なのではと感じた。その大きな理由が神戸ルミナリエの存在意義の議論しかり、昨年世間を騒がせた神戸の世界一のクリスマスツリープロジェクトから感じられた。
最初に戻ろう。神戸ルミナリエが鎮魂の意味を有していると知っているものはどれほどいるのだろうか。単なるデートスポットのような認識をしている人も多いのではないかとは思う。それは一向に悪いことだとは思わない。売り出す側の問題でもあるからだ。世界一のクリスマスツリー(以下ではツリープロジェクトと呼ぶ)も同様である。ツリープロジェクトも鎮魂の意味を込めていたらしい。鎮魂の意味が込められているイベントはそれだけではない。みなさんも自宅近くのイベントの由来などを調べてみるとそこそこの確率で鎮魂が目的であるイベントが存在することに気づくはずである。そうなった時に、僕は鎮魂と風化の関係について考えた。
東日本大震災にしろ、時間が経てば風化することはやむおえない。それを防ぐとかの話を今は問題にしているわけではない。では、僕が何を問題にしたいのか。僕が問題にしたいのは、鎮魂という大義名分を有していたはずのイベントの目的が風化していくということだ。それが何を意味するか。震災などの災害で失われた者の命はその時点で生者からの認識だけとなる。生者の中にはとても大きな傷を作ることもある。その傷の痛みを少しでも沈めるためにあるのか鎮魂に由来したイベントなのではないか。ということだ。震災などで最愛の人を失った苦しみは僕には計り知れないほどのものであろう。生者の魂の感じるそのような感情を沈めるために鎮魂というものはあるのではと、神戸の夜景の写真を見ながら考えていた。

 

この1300万が暮らす都市で生きるということ

電車に乗っている時にふと思うことがある。

今、自分が電車で座っているとしよう。目の前にも誰かしら座っているだろう。その人はどこに住んでいるのだろうか。どこでなにを普段しているのだろうか。思うところ果てしない。僕たちは東京という都市から見れば1300万分の1に過ぎない。果てしなく小さいであろう。ただ、僕はその1300万分の1の存在でもキチンと思考して日々過ごしていることに感動する。逆に言えばそれらが1300万集まったらそれは果てしないエネルギーであるのだろうと思う。もし、これらが全て社会を少しでも良くしようとして過ごしたら世界中がビックリするようなエネルギーになるし、凄まじい勢いで全てが変貌していく気がする。

と思いながら日々僕は過ごしている。

昨日より今日だ。今日より明日。より良い未来を描いて毎日生きていくのみ。

この目が光を失わぬうちに世界は七色に輝いて見えるのだろうか。

八方美人という不幸

書きたい内容はタイトル通りです。はい。

八方美人ってすごくないですか?僕は絶対に無理ですよ。なんで全ての人と均等に関係作れるんですかね。

僕は恐らく八方美人とは対極に位置していると思います。僕は無数の人と出会ってきました。そして、初対面であろうがなかろうがずっと自分を表現してきました。その結果、僕のことを認めるあるいは面白いと思ってくれる人だけが周りに残りました。これを僕はフィルタリングと称しています。一般的に、このフィルタリングは初対面の人にはかけないことが多いと思います。僕は一般的にそうされる理由を以下のように考えています。

一般に、第一印象は重要とよく言われます。確かに、商売においては間違いなく重要であると感じています。しかしながら、商売をしているわけでもないのにわざわざ自分を隠して接する必要もないと僕は思います。しかしながら友人のその話をしたところ、最初からそんなに自分を出してフィルタリングをする必要があるのかと言われました。確かに、普通に考えれば普通の人は初対面で自分のことをさほど語りたくないですし、一見していろいろな人とと仲を深めるチャンスを失っているように見えてもおかしくはありません。しかしながら、僕としての考えは以下のようになります。そもそも、僕と話してて相性がいい(これは意見が全く一致するなどではなくちゃんと語りあえるということ)人は皆、初対面でも自分のことをガンガン話したりする僕を無条件に受け入れますし、その人たちも話してくれます。これはおそらく、自分に関して話し慣れていたり、自分に関しての考えがまとまっていたり、いろいろ考えた経験があった故に話せるのだと思います。

以上の理由があるにしろ、おそらく現代の人の中ではかなり変なことをしている部類に属していることは間違いありません。しかしこれに関しては全く悪影響があるだとかは思いません。むしろ、自分に優しいとさえ思います。ではなぜ僕はそのように感じるのか。それは以下の理由によります。

皆さんは初対面の人と会うときどうしますか?猫を被って探り合いますか?合コンでもしてるんですかね?僕は真逆です。僕はこういう人間ですよ、話しているようなものです。恐らくそうすると色々な人から嫌われたら~とか言われます。いや、良いじゃないですか?嫌われても。一期一会の関係で終わっても。そんなに、自分のこと見てくれなさそうな人と関係持ちたいんですか?と僕は思います。僕は高校生の時に周りの人がつながり症候群である。との表現をしました。要はたくさんの人との繋がりがないと怖い、苦しいということです。僕はそうは思いません。数は少なくてもいいですが自分自身を受け入れてくれる人を探して死ぬまで仲良くしたらいいと思います。僕はそういう意味でオープンなゲイバーとかの男の人はとても好感度が高いです。確かに彼らは大多数の人からしたら異質の存在に思えるかもしれません。しかし、彼らはゲイバーを経営することで自分のことを多くの人に表現しています。そうすると、彼らに共感できたり彼らのことをおもしろいと思える人だけが来ます。それって最高じゃないですか?認めてくれる人達が近くに集まってくるんですよ?確かに、今の日本だったら社会的に~とかって話があります。そんなの、捨ててしまえと僕は思います。だれが万人受けする人間になれって言ったんですか?言っていませんよね?テレビにでてる芸能人になりたいんですか?誰からもバッシングを受けずにいたいですか?そんなものさっさと捨てた方が幸せですよ。

 

カエルはいるのか

カエルというのは例えである。人間の成熟段階をカエルの受精卵、オタマジャクシ、カエルなどと比喩しているのみである。僕の中でカエルは人間が成った状態であり、そこで成長は終わる。友人と話していた時に宗教の話となった。僕はその際、カエルはいないといった。イエスでさえ、ブッダでさえカエルにならず一生を終えたと思っている。僕の中で宗教は、少し成長したオタマジャクシが受精卵などに自身の考えなどを共有することで未熟なものたちを導き、受精卵同士でも考えを共有したりすることで何かかが生まれ、オタマジャクシはそこからも何かを得る。という成長形態の一種としか思っていない。カエルがいるように見えたならそれはまやかしでしかない。人間は何かに成った時点で終わる。だが、終わりは本来無いはずである。勝手にその人たちの中で終わりとしただけである。

人間は死ぬまでオタマジャクシである。